ブログを書くにあたりきめたこと

愛猫のことをどうしても記録に残しておきたくって

思い立って始めたブログ。

もともと何かを続けるというのはとても苦手な作業なのだけど

これを機に自分に思ったことや、考えたことを残しておくのもいいのかなって思ったのです。

いつ死ぬか分からないからね。

私ってどんな人間だったのか、残しておくのもいいよね。

 

ってことで、できるだけ毎日書き記すことにします。

 

でも、いつも何かを書き残そうとすると、何を書こうか?で

とっっっっても時間を費やして、書いては消してを繰り返してしまうので

自分ルールを作ることにします。

 

①記事は30分以内で書くこと。

ノリノリで書き進めてても「後編へつづく!」で次号に。

逆に筆が進まなくても、30分で書けることだけ書いて終わること。

 

②「絶対毎日」と思い込まない。毎日書くことより、長く続けること。

でも、意識しないレベルで習慣になるといいなー

出来なくでも、自分を責めないこと。

 

③何を書いてもよい

内容は決めない。

何でもいい、書きたいことを書く。

 

他にもマイルールを思いついたら追加しよっと。

 

それじゃ、よろしくね。

ブログちゃん(*^^*)

愛猫が死んだ

愛猫が死んだ。

愛猫は「なつめ」といい、私は「なーちゃん」と呼んでいた。

今年の6月で8歳になったばかりだった。

 

1週間前から体調を崩していた彼女は、水すら飲まない、そんな状況だった。

嫌がる彼女を病院へ連れて行き、下った診断は腎不全と尿管結石。

なーちゃんの片方の腎臓は役目を終え、すでに委縮していた。

残ったもう片方の腎臓はパンパンに腫れている。

そんな状況だった。

医師曰く、かなりよくない状況と告げられた。

 

それからの毎日は、ぐったりする彼女を連れ毎日点滴へ通った。

時に血液検査をし、腎機能の数値を確認したが

いくら点滴をしようと、数値は依然高いままだった。

 

彼女は確実に死を迎える準備をしていた。

私はそれに気づいたけれど、あきらめたくなかった。

大好きななーちゃんを失うなんてことを、受け入れたくなかった。

 

しかし、その日はついに訪れてしまった。

 

ザーザーと雨が降る、つめたい夜だった。

彼女を枕もとに寝かせ、私は眠りについていた。

夢の中で、彼女が鳴いた声がした。

ハッと目を覚ますと、頭を低くして寝っている彼女がいた。

安心した私は再び眠りにつく。

しかし、またしばらくすると鳴き声が聞こえた。

衰弱してから鳴くことなどあまりなかったので、二度も聞こえたことに不信感を覚えて体を起こす。

 

隣のなつめをよく見ると、眠っているのではなくぐったりしていることに気づいた。

床に就く前は、しっかり頭も上げて興味津々で外の雨を眺めていた彼女の見る影はそこにはなかった。

 

「もう、ダメかもしれない」「いやだ、あきらめたくない」二つの気持ちが心の中で葛藤し、私はダメもとで水を入れたシリンジを口元に持って行った。

犬歯から水を流し込もうとするが、飲み込む力すら残っていない。そんな状況だった。

私は、あがくことをあきらめて、静かになつめを見守ることにした。

隣の部屋で眠っている夫を呼び、二人でなつめの最後を心に刻んだ。

 

なつめの最期は、うつくしかった。

今まで死に触れたことがなかった私にとって、それは神秘的なものだった。

ろうそくの灯が終わりを迎えるように、一瞬激しくエネルギーを発し、静かに消えた。

 

ただひたすら悲しかったが

その生きざまは心から感動するものだった。

 

私の大好きなドキュメンタリー映画で、ジャックマイヨールが言っていた。

人間は生まれる時に、母親のおなかの中の世界から一度「死」を迎え、この世に生まれてくると。

「死」を乗り越えたのちに、新しい「生」があるのだとしたら、きっと彼女の魂は次のステージへ旅立ったのだろう。

 

 

それからの時間は、なつめの身体をきれいに拭きあげたり、

まだ温かい体をなでたり、今まで病に侵されながら戦ってきた彼女の肉体を愛しんだ。

 

不思議なことに、臥せっていた時の毛並みより、こと切れた後の毛並みの方が艶々して綺麗だった。

きっと苦しんでる本人の心情を表していたのだろう、と夫は話した。

たしかに、眠るようにして横たわっている彼女は本当に穏やかな顔をしていた。

 

夫と二人で涙を流しながら、それまでの彼女との思い出を語り合った。

朝、お腹がすくとカーテンレールからベッドめがけて降ってきた彼女。

私の足元をうろうろして、踏まれてしまう彼女。

名前を呼ぶとしっぽで返事をする彼女。

綿棒を投げると喜んで取りに行った彼女。

冬に毛布にフミフミして、よだれでびしょびしょにする彼女。

朝にいないと思うと、一番最後まで布団の中で丸くなってた彼女。

粗相をたしなめると、強い口調で反論してきた彼女。

色んな彼女の姿を思い出して、二人でボロボロと泣いた。

 

寂しくて、悲しくて、どうしようもない気持ちだった。

 

私は子どもを亡くしたことはないので、想像でしかないが

8歳の子供を亡くしたのと同じだと思った。

ただ一つ人間の子どもと違うのは、自分より早く「死」が来ることを知っていたこと。

 

「死」は、どんな幸せの絶頂であれ、いつだって頭の片隅にあった。

元気彼女の死を想像しては、その時の自分はどうなってしまうのだろう。

もしかしたら、悲しすぎて死すら考えてしまうのではないかと、暗い気持ちになっていた。

 

そしてついにその日を迎えたの、か。

 

実際に迎えてみると、死んでしまいたくなるほど狂気に包まれることはなかった。

ただ、ひどく寂しく、悲しかった。

 

しかし、驚くことに、次の日には日常に戻ったかのように、私も夫も淡々と一日を過ごした。

むしろ、自分たちもなーちゃんのように、今世を精一杯生きようと活力が沸いたくらいだ。

次のステージがあることを信じてる私たちにとって、なーちゃんは死を迎えて、ステップアップしたのだ。

そう思うことによって、自分たちにも訪れるであろう「死」も前向きにとらえられるようになった。

 

数日経った今も、彼女のお気に入りの場所を目にしては、今はない彼女の姿を思い出して、ほろりと涙が流れるけれど

彼女が次のステージへ向かったように、私もいつかこと切れるその瞬間に、満足して旅立てるように、毎日を過ごそうと思った。